僕が生きる上で心に留めていることを書きます。
疑うことだけは疑わない
公理に則って推論を働かせるとして、何を公理とするべきかと言われたら、僕は「何事も疑うこと」と答えるだろう。何事にも「絶対」というものは存在しない。科学が絶対に正しいわけではない。個人の体験談が絶対に正しいわけではない。哲学が絶対に正しいわけではない。大事なのは全ては程度の問題という思考。
この格律だけは疑うことの対象から外さないと、嘘つきのパラドックスになってしまうので、これだけは公理として認めたい。
追記(2025/07/12)
プラグマティズムに影響されたことを受けて。疑うこと、つまり論理的な検証を行うことの対象から、人間が関わるような、本質的に行動によってのみ正しさが知られる問題=選択を外す。逆に言えば、常に疑うべきなのは「AはBだ」という科学的な(=事物の存在を主張する)命題である。今までの僕は、科学的な命題と道徳的な命題の差異を意識していなかった。
全ては程度の問題
ある意味で「疑うことだけは疑わない」と等価な命題なのかもしれない。つまり、絶対に正しいというものは存在しないのだから、正しさの曖昧な領域がその間に存在するだけである、ということ。だから「全ては」という公理的な言葉遣いをしているのかもしれないし、それを聞いても嫌悪感を覚えないのかもしれない。
アリストテレスの中庸と同じ概念。孔子の中庸とは異なるかな。
この言葉遣いは、僕の好きな音楽家である車田和寿さんがよく使う言葉から引用した。
ただし、いつでも「スペクトラムの思考法」が有用であるとは限らない(これさえも全ては程度の問題)。他のフレームワークにも言えることだが、この考え方が有用である場面と、そうでない場面がある。だから、任意の状況においてこの思考法を当てはめようとする態度は、あまり良いものとは言えない。