ここ2日間、ずっと哲学的な思索に耽っていた。考えていた問いは色々あるが、その中でも「ある言論を信じるためには、常に論理的な検討を経る必要があるか」という問いについて考察していた。
きっかけは、世間でよく言われるアドバイスで「若いうちは何にでも取り組むといいよ」とか「やらない後悔よりやる後悔」という言葉があるが、これを行動に移す前に、信じる価値があるかどうか論理的な基礎づけを行ってみようと思ったこと。この思考は、疑うことだけは疑わないという僕の信念に基づくもの。
しかし、いくら考えても本質的な議論ができていないと感じた。思考は「意味とは何か」とか「意味を考える意味は何か」とか、別の本質的な、しかしいくら考えても分かりそうにない方向に行ってしまった。これが1日目。
2日目、僕は先人たちの哲学に助けを求めた。いや、正確に言えば、たまたま哲学を紹介しているページを眺めていたら、先にも述べた「ある言論を信じるためには、常に論理的な検討を経る必要があるか」という問いについて考察をした哲学者と出会った。それがウィリアム・ジェームズであり、彼の哲学が「プラグマティズム」であり、「信じる意志」だ。
信じる意志
彼の著書「信じる意志」で主張されていることは、簡単に言えば「精神の方向を決定するような選択、問題(道徳的問題、宗教的信仰など)は、論理的な基礎づけが本質的に不可能である。したがって、そのような問題の真理に近づくためには、実践による検討が不可欠である。さらに言えば、実践によってのみ真理に近づける」ということ。
もっと噛み砕いて言えば、「人間が関わるような問題は、頭の中で考えたって仕方ないから、頭でっかちにならずにとりあえずやってみて、その結果で正しいかどうか判断した方がいいんじゃない?」ということ。
例を出してみる。ある人が「ボランティアをやるべきかどうか」で悩んでいるとする。彼がプラグマティズムの対極(デカルト主義)に身を置くならば、彼はボランティアは偽善か、ボランティアは本当に人の役に立っているのか、などの問いを投げかけ続け、終ぞボランティアをすることはないかもしれない。
一方で、プラグマティズムの思想を持っていたら、みんなボランティアをやるべきだと言うけれど、本当にそれがいいものかどうかなんて、やってみないと分からないから、とりあえずやってみよう、となるだろう。
こうやって言い換えてみれば、この格律だってよく社会で言われるアドバイスだと気づく。でも多分それは、つねにすでに存在したイデオロギーではなくて、プラグマティズムが淵源なのだろうなあ。
プラグマティズム
さて、この主張はプラグマティズムに基礎付けられている。ではプラグマティズムは何かというと、これはさっきの言明の後半部分「頭の中で考えたって仕方ないから、頭でっかちにならずにとりあえずやってみて、その結果で正しいかどうか判断した方がいいんじゃない?」に相当する。
つまり、ある仮説が正しいかどうかは、つねに実践によって判断される。 では、何を持って「正しい」とするのか。プラグマティズムの思想では、仮説の「正しさ」は、その仮説がどれだけ確からしいか、さらに自らにとってどれだけ有益か、という尺度で測られる。これが、プラグマティズムが「実利主義」や「実用主義」と和訳される所以であろう。
内省
僕の1日目の思考法とプラグマティズムは、何が違うだろうか。ある仮説があったときに、僕は思考によってその仮説の真偽を確かめようとして、それが分かった後に初めて実践に移そうとしていた(デカルト主義)。対してプラグマティストは、思考は新たな仮説を生み出すための道具であり(道具主義)、その仮説が正しいかどうか(私にとって有益か)は、実践を通じた検討によってのみ知られる、と考える。
ここで初めて「若いうちは何にでも取り組むといいよ」「やらない後悔よりやる後悔」が正しいかどうか、という問いに対して回答することができる。それは、やってみなければわからない、ということだ。
あまりにありきたりな答えかもしれない。しかし今の僕にとっては、肌感覚を伴った、正真正銘の回答に感じられる。
このような見識を得られるから、哲学は面白い。